戸塚 宏の"にんげん"教育学  J

『幸福、喜び、感謝』


 優しいお母さんは、子供に幸福になってもらいたいと願っています。そして、幸福にしようと努力します。しかし、非行、登校拒否、家庭内暴力、親殺し、子殺しと、現実は逆の方に進んでしまうことが少なくありません。
 これは、「幸福とは何か」をよく考えずに子供を扱ってしまうからです。「幸福」とは「喜び」という本能から創られるものだということをまず押さえておかないと、子供を幸福にはできないのです。
 「喜び」という感情が強くなければ、「幸福感」は得られません。巷にあふれている無表情な子供達のように、感情のない子は幸福になれないのです。我々にとって「気味の悪い奴」でしかない彼らは、何のために生きているのか分からない、味気ない人生を送っています。

自分の行動抜きに「幸福」にはなれない

 「幸福」とは、進歩した時、あるいは自力で価値を獲得した時に生じる「喜び」のことです。本人が行動しなければ、幸福にはなれません。ですから、「子供を幸福にしてやろう」などと、大それたことを考えてはいけません。子供は自分で幸福になるのです。
 我々は時々、「子供を幸福にしてやった」と思うことがあります。欲しがっているおもちゃを買ってやった時、子供のうれしそうな顔を見ると、我々もうれしくなってしまいます。しかし、これは子供を幸福にしたのではなく、「感謝」をさせたにすぎません。この「感謝」と「幸福」をごっちゃにしてしまうから、物を与えすぎてしまうのです。
 価値を自分で獲得した時に発生する喜びが「幸福」。価値を人から与えられた時に発生する喜びが「感謝」です。「幸福」は自分の力でなるもの、獲得するものですが、「感謝」は他人の力によるもの、与えられるものです。他人に頼っていては決して幸福にはなれません。自立的、行動的でなくてはならないのです。
 「進歩」というのは自分の価値を高めることですから、進歩の結果、我々は幸福になります。これが『民をあらた新にする』(大学)ということの意味です。
 『日々に新たに、又新たなり』(大学)――毎日、進歩するように仕向けるのが権力を持つ者の義務です。親も先生も子供に対しては権力者ですから、子供を進歩させる義務があります。しかし、「物を覚える」という今の教育のあり方は、残念ながら進歩にはつながりません。精神の進歩とは、「物の見方(正見…仏教)、考え方(正思…仏教)」を高めることです。『慮(おもんぱか)る』(儒教)、『慎んでこれを思う』(中庸)ことにより、精神は進歩します。

本能を強くし、「幸福」になる能力を高めよう

 知識を得ること、覚えることは、「正見・正思」に到るための手段の一つに過ぎません。これは、我々がやっている、ウィンドサーフィンのようなスポーツに置き換えてみるとすぐ分かります。「ウィンドサーフィンの上達法」なる本を何百回読んでも、乗れるようにはなりません。
 『学びて、時にこれを習う』(論語)――「習う」とは、繰り返し行うという意味です。行動しなければ進歩はありません。
 これは精神でも同じことで、「考える」という精神的行動を抜きにして、進歩はあり得ないのです。大学受験の秀才が、精神的には非常に低い(幼い)のは、進歩していないからです。近頃多発する、元秀才が起こす凶悪事件も、その精神性の低さ故です。
 受験秀才は、自分が精神的に優れた人間であると信じ込んでいます。人にもそう言われて褒められます。しかし、その実感がありません。当然の結果である幸福を感じないのです。そこで、さらに人に褒められることで、それを実感しようとします。ヨットスクールによく来る、ものすごいおしゃべりは皆このタイプです。しかし、どんなに知識を披瀝しても、みんな嫌がるばかりです。すると彼らはさらに本を読み、テレビを見て知識を増やしますが、結局また嫌がられます。この状態が『輪廻転生』です。『無明』(間違った知識)がなさしめるのですから、正しい法則をつかみ、輪廻を打ち砕かねばなりません。
 今の受験問題が物覚えのいい人間に有利になっている限り、このような秀才は増産されます。これは、受験問題を作る人の資質の問題で、その人達もまた、同じタイプの秀才だったのでしょう。
 幸福になるには、喜びが大きくなくてはなりません。「幸福」とは、「喜び」そのものなのですから。それには、「本能が強い」ということが必要です。『浩然の気を養い』(孟子)、『独を慎む』(大学)、つまり訓練する必要があるのです。また、行動力がなくてはなりません。強い感情を持ち、恥を知る力で強い意志を発生させなければならないのです。